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秋の読書特集2019

秋の読書特集 掲載広告




『週刊佛教タイムス』2019年10月17・24合併号の秋の読書特集では、24冊の仏教書・宗教や信仰をテーマにした書籍をご紹介しました.

(各書評は紙面でご覧ください)

・栗田英彦・塚田穂高・吉永進一編『近現代日本の民間精神療法―不可視なエネルギーの諸相』国書刊行会 評者=鎌田東二
・渡辺雅子『韓国立正佼成会の布教と受容』東信堂
・田中洋平『近世地方寺院経営史の研究』吉川弘文館
・大澤絢子『親鸞「六つの顔」はなぜ生まれたのか』筑摩書房
・吉村昇洋『精進料理考』春秋社
・ひろさちや『生き方、ちょっと変えてみよう』『のんびり、ゆったり、ほどほどに』佼成出版社
・黒野伸一『お会式の夜に』廣済堂出版
・松本紹圭・遠藤卓也『お寺という場のつくりかた』学芸出版社
・船山徹『仏教の聖者―史実と願望の記録』臨川書店
・延塚知道『高僧和讃講義(二) 曇鸞』方丈堂出版
・江田智昭『お寺の掲示板』新潮社
・ビハーラ医療団編『ビハーラと妙好人』自照社出版
・井本勝幸・荒木愛子『帰ってきたビルマのゼロファイター』集広舎
・大木毅『独ソ戦』岩波書店
・葉祥明『コールマイネーム 大丈夫、そばにいるよ』浄土宗出版
・大法輪閣編集部編『人気の仏様たち徹底ガイド 阿弥陀・薬師・観音・不動』大法輪閣
・安達瑞光『生き方が、仏教』風詠社
・水野辰雄『日本!起死回生』PHPエディターズスクール
・宇野弘之『「唯心鈔」を読む―信仰心・心の糧の宗教哲学』山喜房佛書林

教誨師・死刑・「悪」を考える3冊 裁きとは何か、赦しとは何か

繁田真爾『「悪」と統治の日本近代―道徳・宗教・監獄教誨』法蔵館
加賀乙彦『ある死刑囚の生涯』筑摩書房
中山七里『死にゆく者の祈り』新潮社

 昨年夏、地下鉄サリン事件などに関与したオウム真理教幹部13人が刑死した。通常、死刑執行には教誨師が立ち会うが、教誨師からその様子は伝わってこない。守秘義務があるのだろうか。

 日本は先進国の中で米国と共に死刑存置国である。もっとも米国は州によって異なり、死刑を導入しなかったり行使しない州もある。イギリスは1998年に全面的な廃止した。それから20年余になる。
全くジャンルの異なる書籍から教誨師と死刑について考えてみたい。

 まずは研究書である『「悪」と統治の日本近代』。3部構成で、第Ⅰ部「飾られた規範―国民道徳の形成」では井上哲次郎の道徳論を探究し、第Ⅱ部「『悪』と宗教―清沢満之を中心に」では、清沢満之の精神主義に新たな光をあて、内面的なものとされてきた精神主義が、教団革新(改革)運動にみられるように社会性があったと論じる。

 いずれも重要な示唆が含まれるが、ここで注目したいのは第Ⅲ部「刑罰と宗教―監獄教誨の歴史」である。近代日本の監獄教誨は明治10年代に真宗教団から始まったとされる。明治5年にはその濫觴があった。しかし著者は監獄制度と「教誨師」の名称誕生から真宗始まり説に疑問を呈する。そのうえで重要な役割を果たしたのは原胤昭と留岡幸助のキリスト者であったと論証。さらに明治20年代には真宗教団が教誨師をほぼ独占していく経緯についても明らかにする。

 そもそも教誨とは何なのか。当時の言葉では「悔過遷善」(かいかせんぜん)である。文字通り、対を悔い改め善き人間へとすることである。こうした教誨のあり方を深化させようと「監獄教誨学」を提唱した藤岡了空(大谷派)や、囚徒に同情的で死刑に批判的な田中一雄(本願寺派)の存在は貴重である。田中は200人の死刑囚の中で1人は誤判の疑いがあるとまで述べている。

 また著者がいう「異端的教誨師」とは、「清沢満之たち改革派グループの信仰運動から強い影響を受けた教誨師」のことで、いわば精神主義を獄中の人々に敷衍しようというものである。こうした教誨師を異端とするのであれば、対となる正統教誨師についての言及も欲しい。今後、明治後期以降の監獄と教誨研究が期待される。

 次に取り上げるのは死刑囚の手記と日記を中心にした『ある若き死刑囚の生涯』。あとがき以外はすべて一人称。主人公の純多摩良樹は横須賀線爆発事件(1968年)の犯人。山形生まれ。父の戦死が人生を左右したと言っていい。手先が器用で、上京して大工となった。恋煩いから爆弾を電車の網棚に置いた。爆発により1人が死亡し29人が重軽傷を負った。犯行時は24歳。死刑確定は27歳。執行は32歳。

 この間、牧師の教誨をうけ、洗礼を受けプロテスタントとなった。手記では驚くほど冷静に自身に起こっていることや周囲の様子を記述。殺人者とは思えず、更生の機会はなかったのだろうかと思わずにはいられない。 

 獄中では多くの和歌を詠んだ。歌誌や新聞歌壇に投稿し掲載された。純多摩良樹の名前も歌人名である。教誨師とまじわり、キリスト教に深く傾倒していく。“晩年”は作家であり精神科医でもあった著者との交流の様子も記録されている。死刑直前の最後の手紙は著者あて。「キリストを信じてきて良かったです。まことの平安が与えられました」の言葉も。明鏡止水とはこのことだろうか。

 前2冊はノンフィクションだが、両者の教誨師と死刑をミックスしたのが社会派ミステリーの『死にゆく者の祈り』である。ある日、真宗僧侶で教誨師の高輪顕真(主人公)は獄中で一人の死刑囚が自分の友人であると気付いた。しかも学生時代のいのちの恩人だった。なぜ彼がここにいるのか。そこから謎解きが始まる。カップル殺しで死刑判決を受けた友人。事件の真相と友人を助けようと所轄署に行ったり被害者遺族を訪れたりした。冤罪が疑われた。小気味よく進展するが、教誨師が個別の死刑事件を究明(再捜査)することは現実ではあり得ない。

 とはいえ、過去に一度あった。戦後間もなく九州で起きた福岡事件である。無実を訴える二人の死刑囚に耳を傾けたのは真言僧の古川泰龍。最初の面談から数年の時間を要して無実を確信し、再審運動にとりかかった。古川泰龍は冤罪を訴え全国を行脚したが、その途中、一人は死刑、一人は恩赦で無期懲役と明暗が分かれた。

 本書の謎解きは意外な結末を迎える。ただし主人公は死刑廃止派ではなさそうだ。

 3冊は教誨師や死刑について検討するに相応しい書籍だが、もう一つ加えるとすれば、繁田氏の著書にある「悪」とは何か、であろう。しかも一度「悪」とされたものは、そこから逃れられないのか。おそらく個々の判断によるのだろう。さらに附随して、裁きや赦しについて考える機会にもなろう。
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