シリーズ原発と僧侶 能登編

【石川・能都町―真宗大谷派長慶寺住職/長田浩昭氏】

(編注:当時。現在は兵庫県法伝寺住職)
 原発推進か反原発、脱原発か――。釈尊、宗祖の時代には思いもつかぬ問題が惹起してきた。原発基地の僧侶はこの問題に否応なく関わらざるを得ないし、地元だからこそ見えてくる問題もある。このシリーズは、そんな地元の僧侶が日常の檀信徒とのふれ合いの中で聞いた話や、自身が感じたことの報告である。

 私は能登に生きる仏教徒であります。インドのカースト制度という民衆への圧力の中で「天上天下唯我独尊」と、どのような“いのち”であろうとも尊ばれなければならないと叫ばれた、釈迦の教えを学ぶものであります。危険性は当然のこと、廃炉の後始末の不安によって、後の世の“いのち”を阻害するという原発の地に住し、釈迦と宗祖を売り物にして生きるのか、それとも目に見えない圧力に対して立ち上がった人々と共に生きていこうとするのか、私にとって原発とはその様な宗教的な課題としてあるのです。
 能登半島の先端珠洲市で、原発計画の是非をめぐって市長選挙が行われたのは、今年(編注:1989年)の4月。積極推進派の現職が当選したものの、表だった反対運動のなかった地で、反対派の新人候補2人の得票総数が推進派の得票数を上回ったのは、画期的な出来事でした。
 しかし、その後、その民衆の声を無視するかの様に行われた可能性調査、民衆の阻止行動、調査の中断という一連の出来事の中で、原発問題は大きな騒ぎになっていった。そして、その騒ぎも収まったかの様に見えるのだが、大きな騒ぎがないという事で、逆にその本質が見える事がある。
 今年(編注:1989年)11月下旬、珠洲市の中学生「私の主張」発表会が行われる予定であった。市内の各中学で予選を勝ち抜いた者が意見発表をするものである。この発表会は、中央公民館、教育委員会が関係している。
 ところが、発表会以前の校長会の席上、中央公民館長が「原発問題に関する主張をする生徒は出さないで欲しい」という要請を出していたことが明らかになった。さらには市の教育長が「原発問題を教育の現場に持ち込まないでほしいと言ってきたが、今度の主催者側の要請は結構なことと思う」と話す始末。昨年(編注:1988年)は2人が原発問題について主張したために「記録集」の発行が中止、今年は発表会自体が中止になった。
 珠洲では、多くの家庭の日常の中で原発の問題が話し合われている。子供達がその家庭の中で、原発問題に関して自由な意見を持つことは当然の事。その様な中で今回の事件は、子供達の自由な感性や意志を一部の大人たちの都合や利害やしがらみによって押えつけようとするものであるし、民衆への抑圧が細部にわたって行われている象徴的なことであったと思うのです。
 思えば、原発計画が持ち上がってきた地方においては、長い年月の間、原発すなわち「発展・所得向上・過疎脱却」という美名の下に行われ続けてきた事の本質は、まさにこの事件が象徴するような、民衆への抑圧であったと言っても過言ではないのです。
 珠洲市で起こった反対運動は、「だからこそ」ということが、背景にあるように私には見えてくるのです。具体的には市長選挙の開票の夜、反原発票が推進票を上回った事を知って、駆け付けてきた現地の若い漁師の人が興奮して、「これでやっと、堂々と街を歩ける。『自分は反対や』と名乗れる。ありがとう」と言ったのも、それほどの目に見えない圧力を受け続けてきたからこそであったのでしょう。

 珠洲市選挙で、「原発はいらない」という市民の判断が出てから一月もたたない昨年(編注:1989年)5月12日、突然原発予定地(高屋町)で可能性調査(事前調査)が始まった。その日から調査の一時中断という発表まで約1ヵ月間、反対派住民による阻止行動が続いた。
 事前調査を行って、「原発立地に適していない」という判断が下された事がない、この国の事実を知れば、ともかく調査を許すわけにはいかなかったのでした。漁師の人々が、船を出さずに駆けつけてきた。
 その中での出来事です。ある日、動こうとした調査の作業車の前に飛び出し、車の前で大の字になった一人のおばあさんがいた。
「ひくならひいてみろ。おらの命ひとつで原発が止まるんなら、これで子供たちや孫たちにかおむけができるんや。さあ、ひけ!」と。
 また、作業員に対して、「おら、あんたたちに感謝するわ。原発計画のおかげで、一番大事なことに気付かせてもらったんや。この町には宝があることに気付かせてもらったんや。自分たちを育んでくれた、自然が豊かなこの土地、この海や。この宝を、このまま子や孫に渡していくことが、自分の仕事やったんや。もう十分やさかいに、帰ってくださいや」という合掌するおばあさんの姿があった。
 反原発の行動は、住民の声を無視する行政に対する怒りということでもあったのだろうが、そのおばあさんたちの姿が象徴するように、本来持っていたはずのもっとも大事なことを見い出し、「人間として生きる」ということを明らかにしていく作業でもあった。
 その姿によって映し出されてくる現代という時代社会は、お金というものを一番の価値にすることによって、今の世を生きる者だけの便利さと豊かさを求める中で、亡き人々の“いのち”とのつながりを見失ってきたのであろう。さらに、自然というものを「飯の種」としか見えなくなるということは、自分の回りの“いのち”とのつながりさえも見失ってきたということでもあろう。
 まさに、「人間として生きる」ということが問題にならなくなった時代社会である。そのような時代社会の象徴として、原発というものがあるように思えるのです。
 その時代社会の罪を共に抱えているはずの珠洲において、反原発の運動の中で「人間として生きる」という事を課題にする人が生まれた。この事実は、外からどのように評価されようが、何よりも尊いことなのです。
 宗教とは本来、その時代の罪を負った人間が、その時代社会のまっただ中で、新しく「人間とは?」という課題を抱えた者に生まれ変るということなのでしょう。しかし皮肉なことに、珠洲で起こったその事実は、決して宗教家が生み出したものではありませんでした。追い詰められた民衆が、自らの奥にうずくものを、自らの手で獲得していったのでした。

 昨年(編注:1989年)5月、珠洲市で突然始まった可能性調査(事前調査)の阻止行動と共に住民が行ったのは、市長との面会を求めた座り込みであった。市長の原発推進の姿勢は変わらず、それ以降40日間の座り込みが続いた。
 その中で、市長の代わりに対応をしていた助役の口から、原発というものは一体どういうものなのかを端的に表した言葉が出てきた。それは、原発労働者の実態を知っているのかという住民の質問に対して、「そんな危険な仕事は、珠洲市民以外の者にやらせればいい」という言葉であった。
 原子力発電の問題は、事故が起こればもちろんのこと、たとえ事故が起きなくとも日常蓄えられていく放射性物質の危険性によって、そこに生きようとする人間を不安にさらすものである。
 そしてさらに重大なのは、原発を運転させるには、その炉心の中に入って放射能被曝を余儀なくされ、犠牲になっていく下請け労働者を抜きにして存在しえないものである。何か原発とは、高度な科学技術によって保たれているような錯覚に陥りがちですが、決してそうではなく、“いのち”を削られて切り棄てられていくそのような人々によって保たれているのです。
 しかも、日本中で37基が稼働している現在(編注:1990年)、被曝労働者は5万とも6万とも言われているのであれば、原発が動き出してから20年以上、これまでどれだけの人々が切り棄てられていったのであろうか。
 助役のこの発言の意味は、そのような事実を明らかに知っているものであったし、そしてそのような事は「自分たちが豊かになるためには、しかたがないことだ」としている事であった。
 現代という時代は、戦後40年の歩みの結果、豊かになり、便利になり、快適な生活を送れるようになってきたことは確かである。そしてその事を、「おかげさまです」「ご先祖様に感謝しております」と言われる人に出会うことがよくある。しかしそれらの豊かさは、アジアの経済侵略等の問題が告発され続けているように、自分たちの眼に見えない所で、生活そのものを奪い取られ、切り棄てられていく人々を必ず必要とするものであった。
 決して、ご先祖のおかげであったり、「感謝しています」と言えるようなことではない。原発問題もまた、経済的な発展の中で、豊かさ・便利さ・快適さという幸福に享楽し、その目的のために切り棄てられる人々があっても「しかたがない」と言って自分の欲望の生活を満たす差別構造の結果であった。
 その発言を目の前で聞いた200人以上の市民は、驚きとともに、一斉に立ち上がって「それでも人間か!」と、いつの間にか叫んでいた。切り棄てられていく人々が見えた時の憤りと怒りの中に、仏の魂が「人間とは何か」「人間として生きるとは」と問いただしてきたのであった。
《世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない》(宮沢賢治)。

――――佛教タイムス1989年12月15日号、1990年1月1日号、1月15日号掲載