発行元は「佛教傳道協會」 安芸門徒や超宗派僧侶が協力

終戦前後の広島について語る岩崎氏 広島別院の仮本堂落慶から2カ月後に『仏教タイムス』が創刊されるため、時期的には広島別院内の一部を編集部が間借りしていたようだが、岩崎氏は「当時の広島別院には、とてもそのような余裕はなかったのではないか」と推測する。連絡先や事務局は別院内としても、実際の編集作業は別の場所で行われていた。

 それを裏付ける資料がある。岩崎氏が持つ『財団法人闡教部百年史』である。闡教部は明治初頭に広島市内の猫屋町・明教寺の門信徒が毎月数回の法話会を開いたことに始まった団体で、念仏弘通の情熱に燃え、聞法や慈善活動を精力的に行っていた。広島の財界人にも広がり、活動資金を捻出するため各種事業会社を起こした。

 ついには私塾の光道館から発展して私立光道小学校を創設した。光道小学校は大正12年に新校舎を建築。当時としては珍しい鉄筋校舎だった。同書では「神戸以西で初の鉄筋校舎として話題になった」と記されている。この光道小学校は岩崎氏の母校であった。やはり原爆でこの鉄筋校舎も外観のみを残し焼けてしまった。しかし、建物は残ったため、応急修理をして外部に貸し出していた記録が同書に残されていた。

 常光は東京に移転する昭和25年9月頃まで、この小学校を拠点として用いていたようだ。この間、発行主体は「佛教傳道協會」を公称している(現在の仏教伝道協会とは異なる)。記録には、昭和22年3月から「佛教傳道協會」に対して「大一室、小一室、三階西側、玄関上側」を貸し出したと記されている。

 当時、廣島縣佛教會が発展的に解消し、廣島縣佛教聯合會が誕生。常光は双三郡仏教会の理事長として廣島佛聯の副委員長、事務局長に就任した。同時期に佛教傳道協會の理事長となる。廣島佛聯も佛教傳道協會も本部や事務局を広島別院内としていた。この頃、常光は方々の寺院を周り、協力を呼びかけている。

廣島は佛教王国

 岩崎氏は、発足したばかりの佛教傳道協會の発起人や賛同者の中に知り合いを見つけると、「この人も知っている」と懐かしんだ。創刊当時、毎号のように賛同者を掲載。各宗派僧侶が名を連ねており、広島の超宗派僧侶たちが運動を担っているのがうかがえる。

 そうした中には僧侶以外の篤信者もいる。津田式手押しポンプの発明で一財をなした津田喜次郎は、佛教傳道協會の理事を務めた安芸門徒の一人だ。津田ら安芸門徒は宗学を重んじる気風を持ち、国の指導で本山が聖教の一部を削除する動きをみせた際には、「門信徒の代表として、津田さんらは反対の陳情を手に上京、当局と厳しくやり合った」(『見真』463号)とされる。戦時教学が叫ばれた激しい時流の中でも、日々の聞法で養われた信仰的気骨は失われなかった。

 中国新聞で記者を務め、『安芸門徒』(中国新聞社刊)の著述がある水原史雄氏は『見真』の中で「結果的には、教団は最大の汚点を残したが、そうした歴史が反省されている今、津田さんらの行動は輝く。道理を守る―それは、安芸門徒史の中でどこかに受け継がれている」と評している。

 『仏教タイムス』とその発行元である佛教傳道協會は原爆下の廃墟の中から生まれたが、こうした信仰深い安芸門徒をはじめ、超宗派の僧俗によって支えられてきたのである。それを示すように創刊号は「佛教タイムス発刊に際して」の見出しのもと「廣島は佛教王国である」との一文で始まる。この1行に常光の思いが凝縮されている。

 それだけ常光の広島への思い入れは強かった。昭和30年7月25日号の「本紙創刊10年の回顧」で常光は、「そもそも本紙創刊の動機は、他の新聞のそれとは、やや趣を異にしている。それは有史以来人類がかって経験したことのない恐るべき原子爆弾に関連がある」と書き残しているほどだ。その熱意は昭和25年10月、東京に移転してからも変わらなかった次のページへ

創刊15周年から現在の題字 中村素堂氏が揮毫


 「仏教タイムス」の題字「佛教タイムス」は、創刊当初はおそらく印刷所の活字をそのまま用いていたと思われる。時期は定かではないが、確認できる最も古い昭和28年(1953)の紙面では、太めの明朝となっている(右)。下地紋は横線に、悟りを示す菩提樹の葉が描かれている。

 創刊15周年にあたる昭和36年(1961)7月の第468号から現在の題字(左)に移行。書家の中村素堂氏(1901~1982)が揮毫したものだ。下地紋もすこし変化した。中村氏は大正大学なとで書道を指導し、後に名誉教授に。仏教伝道文化賞も受賞した。この題字は45年、2000号以上続いている。